存在価値の証明方法
「蘭、大丈夫?何かすごい汗だけど……」
「ん。平気よ、ありがとう、園子」
気だるい体を無理矢理動かして、わたしはラケットを手にコートへと戻った。セットポイントは5−3。
あと一セット先取すれば、勝てる。わたしが勝つことは、クラスを優勝に大きく前進させる。ここで負ければ良くて2位。最後にリレーを残すものの、この試合でクラスの勝敗が決まってしまうのだ。まさか自分がそんな責任を担うなんて微塵も予想していなかった。
 新一と喧嘩して2日。
 悪いのは、たぶんわたしだ。
 新一と付き合いだして、半年が経とうとしていた。
 わたしたちは3年生になって、球技大会と文化祭が高校を彩る最後のイベントになる。練習で怪我人が出てしまい、わたしは2つの種目とリレーを掛け持ちすることになった。毎日のハードな練習。加えて、受験勉強と家事。わたしは球技大会の前日に高熱を出した。新一は、わたしに出場を止めるように言ってきけれど、わたしは何度もそれを断った。そしてついに、「勝手にしろ」と愛想を尽かされ、今に至る。
「フィフティーン、ラブ!」
なんとかスマッシュを決める。尋常じゃない汗が噴き出してきて、わたしは新一に借りたリストバンドでそれを拭った。
正直、半分は意地だった。
何もできない自分が嫌いだ。どんどん先へ行ってしまう新一に追いつけない自分が情けなくて、悔しい。
 球技大会の5日前、廊下を歩いていたときすれ違いざまに吐き捨てられた台詞が、いまも頭から離れないでいた。
『あ、工藤先輩のあしでまといだ』
何も言い返せなかった。
だってその通りなのだ。
新一はいつでもわたしを守ってくれる。いつでも。新一がコナンくんだったとき、彼を支えたのはわたしじゃない。辛いとき、新一はわたしを助けてくれるけど、わたしは新一に何もしてあげられてないのだ。いつだって。
いつからだろうか。新一が大切なことをわたしに話してくれなくなったのは。
「フィフティーン、オール!」
 何を今さらって呆れるかもしれない。だってわたしは、彼のまえで、彼を助けるどころか、蝕むようにたくさん泣いてしまった。きっと幼い姿でわたしの前に立ち尽くす新一は、泣きじゃくる私以上に胸を痛めただろう。心優しい優しい幼馴染を傷つけることで、わたし自身の傷を軽くしてきたのだ。
 だから嫌だ。いま、この試合をわたしは諦められない。誰かに必要とされたい。それがエゴだとわかっていても、わたしはもう守られるだけの足手まといでいたくない。足を引っ張ることしかできない、弱虫で役立たずなままでいるのは嫌だ。
そのときだった。
審判!と背後で聞きなれたテノールの声が大きく響いた
「ちょっと新一くん!?」
「……新一?」
 園子の慌てた声がして、振り返ると、すぐそこに新一が立っていた。
「ちょっと、あなた……!」
「タイム、お願いします」
 きっぱりした口調で言いきると、わたしは強く腕を引っ張られた。
「えっ、なに……待って、離して!」
「黙ってろ」
ぴしゃりと言い放たれ、わたしは思わず黙り込む。 園子の座っているベンチまで引きづられるようにして連れて行かれる。 コートの周りを囲んでいた外野の生徒たちがざわつきを見せた。
「園子、飲み物」
「え?は、はい」
 そうして園子から新一へ、新一からわたしへと手渡された飲料水を、わたしはぎゅっと握りしめた。 「飲めよ、蘭」
「……なんで」
「あ?」
「なんで、ここにいるの」
 いないはずの新一が目の前にいる。心配をかけるだけかけて、我儘を言ったのに。
悔しくて、流れそうになる涙を唇を噛むことで懸命に堪えた。
またわたしは新一に助けられてる。 わたしのことを心配して、わたしが言うことをきかなくて喧嘩になったのに、そんなことを気にも留めないで、新一はわたしを助ける。
「いいから、飲め」
「……余計なこと、しないでよ!」
気づいたらそう叫んでいた。
瞬間、新一の表情が強張った。
わたしはきまづさに思わず顔をそむける。さすがの新一だって今度ばかりは、愛想をつかすかもしれない。
当然だ。
勝手に自己嫌悪に陥って、心配してくれる新一に当たって。意地はって、自分勝手なことばっかりだ。そのくせ傷つくのだけは一丁前。顔を上げることもできず、わたしはただ俯く。頭がぼっとする。上手く考えられない。自分が間違っていることは分かるのに、言葉が出てこない。
「……ざけんな」
 突如、手の中にあった飲料水を奪われた。
「ちょっ、新一くん!」
園子の悲鳴にも似た声にわたしが初めて顔を上げた時――――。
唇に何かがあたったかと認識した瞬間、甘いものが喉を流れた。
「――――っ!?」
 慌てて躰を引き離そうと新一の体を押そうとしたのに、びくともしない。
それどころか後頭部をしっかりと抑えつけられ、さらに引き寄せられた。
会場中が沸き立った。
女の子の悲鳴や、男の子の「おぉー!」という声が響く。
何をされたのかはっきりと理解したのは、唇が離れたあとだった。
「なっ……!」
 たぶんわたしは、顔を真っ赤にして、金魚みたいに口をパクパクさせていたに違いない。
それは予想外という言葉では到底表現しきれない、衝撃的な出来事だった。
「何やって――――」
「心配して何がわりぃんだよ!」
 わたしの言葉を新一の言葉が遮る。
「心配して当然だろ!俺はオメ―が好きなんだよ!好きな奴が辛そうにしてんのに、見て見ぬふりなんかできっか!俺はクラスの優勝なんかより、オメ―が大切なんだよ!」
そう叫ぶ新一の声がコート中に響き渡る。 あぁ、まずい。
怪訝そうに顔をしかめた園子が目に入った瞬間、わたしはもう俯くしかなかった。
「蘭?」
「…………っ」
  一歩一歩、園子がその距離を縮めてくる。 そして、園子のひんやりとした手がわたしの額に触れた。
「熱っ……!あんた一体――――!?」
 園子が全てを言い終える前に、わたしはその口を両手で塞いだ。
それからすぐに立てかけてあったラケットを握りしめて、コートへ戻った。
2人が何かを言いかけようとしたのは分かった。
でもわたしはそれに気づかないふりをした。
無くさないで、わたしの存在価値ーーーー。 もう何も出来ないのは嫌なの。
グリップを握る手に力が入る。会場も、何かあったらしいということには感づいているらしかったけれど、それが何なのかは分かっていないようだった。今のわたしにとって、それが唯一の救いだった。
「サーティ、フィフティーン!」
 サイドコースに打ち返す。あと2本、先取すれば勝てる。

『工藤先輩のおにもつだ』

 お荷物なんか絶対に嫌。
足手まといにもなりたくない。
『コナンは、俺なんだ』 何で言ってくれなかったの?
志保ちゃんは知ってたのに、なんで?
あんなに側にいたのに、わたしじゃ頼りなかった?
『蘭を、危険な目にあわせたくなくて』
……新一は何にも分かってない。
新一がいなければ、わたしは全然幸せじゃないのに。
新一を失う代わりに得られる安全なんか、そんなもの欲しくないのに。
危険な目に合うことなんかこわくない。
だから、やっぱり話してほしかったよ、新一。
「マッチポイント!」
相手のボールがネットにかかった瞬間、審判の声が響いた。
もう、長いラリーを続ける体力は残っていない。
わたしは大きく深呼吸をした。
試合が終わって戻っても、2人はたぶん喜んでくれない。
新一に限ってば、きっと怒るだけじゃ済ましてくれない。あんなことしてくれてまでわたしを止めようとしたのに、わたしはそれを無視した。
園子もきっと怒ってる。体調のことを隠して、嘘ついて試合出たんだから。
何やってるんだろ、わたし。
心配をかけたかったわけじゃない。怒らせたかったわけでもない。ただ、知りたかった。分かりたかった。分かってほしかった。
わたしはただの役に立たない、足手まといの女の子じゃないってことを。
弱虫で泣き虫な、か弱い女の子じゃないってことを。
あるいは、そうありたいと願っていたのかもしれない。
わたしはトスしたボールを、思いっきり相手のコートにたたきつけた。体中が鉛のように重かった。視界がかすむ。でもここで倒れたら、わたしはきっと後悔する。弱い自分を許せなくなる。
「ゲームウォンバイ毛利。 6−3」
 審判の声とともに、大きな歓声が聞こえた。遠くで、わたしを呼ぶ声がして、わたしの視界は急速に色を失っていった。



 目を覚ますと、見慣れぬ天井が視界に入った。薬品のにおいが鼻をつく。
相変わらず気だるさを感じるものの、先ほどに比べれば幾分かけだるさはなくなっていた。
ゆっくりと上体を起こし、まだ覚醒しきらない頭を右手で押さえる。
「大丈夫か?蘭」
 躰が一瞬びくりと震えた。
優しい口調。大好きなテノールの声。わたしは彼の方に視線を向けた。
「新一……」
「よく頑張ったな」
 優しくわたしの頭をなでる手。責めることもせず、ただただ褒めてくれるわたしの恋人。優しくて、残酷な――――。
 わたしはぎゅっと、毛布の端を握りしめた。
「…………でよ」
気づいたら叫んでいた。
「なんで新一は、いつもわたしには本当のこと、何も言ってくれないのよ!」
 今だってそうだ。
本当に言いたいことはもっとたくさんあるはずなのに、わたしにはいつも本心を隠す。
「いつだって、新一はわたしに本音を話してくれない……」
 コナンくんのときだって、今だって。助けられるのはいつも自分、助けるのはいつも彼。彼を助けるのは、わたしじゃない。彼が素を見せられるのも、いつの間にかわたしではなくなっていた。
「騙してたのが、嘘ついてたのが悪いって責任を感じているなら、……気にしないで」
 熱いものが頬を流れる。
新一のことは、大好き。でも――――。
「同情なんかで、わたしと付き合わないで……」
それは半年間、心のどこかで思っていて、けれども目を逸らしてきたこと。あしでまといだと囁かれたときに、それを上手くながせなかった理由。
わたしは料理を作ったり、身の回りの世話をしたりすることしかできない。新一に、新一から与えられているもの以上のものを返せていない。
「……いいたいことは、それだけかよ」
 低くて冷たい新一の声に、わたしは顔を上げることができなかった。
毛布を握りしめる力が、さらに強くなる。
これで、終わりなんだ。そう覚悟した。
――――そのときだった。
ふわりと優しく、わたしの体が抱きしめられた。
「…………っ!?」
 え?わたし、新一に……。 驚きのあまり、流れていた涙が瞬時にとまった。
「好きだ、蘭」
「えっ?」
「蘭が、好きなんだ」
 言葉と共にわたしを抱きしめる腕の力が強くなる。
わたしは訳が分からずに、ただされるがままになっていた。
「やっと手にいれたのに……簡単に手放してたまるかよ」
 消え入りそうな声。
わたしの首元に顔をうずめる新一。
ほんの少しだけ、震えた躰。
「しん……いち?」
「同情なわけ、ないだろ……」
「え?」
「オメーが好きだ。世界中の誰よりも、蘭のことが」
「…………っ」
そう言った新一の声は、やっぱりどこか弱弱しくて、僅かに震えていた。
「同情なんて、……二度というな」
 ドクンと、心臓が大きく鳴る。
「頼むから」
  新一の大きな手が、指が、わたしの髪に絡みつく。そのまま引き寄せられ、強く抱きしめられた。新一の心臓がすぐそばで大きな音を立てている。 いつもよりも早くて、少しだけ大きな音。わたしは、新一の腕の中で小さく頷いた。頭の上で、新一が安堵のため息を漏らした。
「体調は、大丈夫か?」
「うん、平気」
「っつっても、まだ熱いけどな」
 わたしを抱きしめたまま、新一が自分の額をわたしの額に押し当ててくる。
「へ、平気だってば」
 恥ずかしくて思わず顔をそむける。新一はそれでもどこか安心したように笑った。それから再び、ほんのわずかに空いた距離を埋めるようにわたしの頭を胸に引き寄せ、強く抱きしめて、静かに口を開いた。
「蘭がいねーと、ダメになるのは俺の方なんだ」
「え?」
 わたしは新一の方を向こうとするが、新一はわたしの頭を変わらず自分の胸に押しつけてそれを阻止する。
「冷静に推理も出来なくなるし、元の体に戻ることもきっと出来なかった。俺は飯作れねーからたぶん飢えるし、朝起きれねーからきっと留年だな」
「ふふっ、何よそれ」
 思わず笑いがこみ上げる。
「……コナンになったとき、オメ―に本当のことを言えなかったのは、言えば危険に巻きこむことになると思ったから、っつー話は前にしたよな?」
「ん」
「それは本当」
「うん」
「俺は、オメ―を絶対に危険な目に合わせたねーんだ」
「…………」
「それは、蘭が大切だからってのももちろんけどさ、それだけじゃねぇんだ」
「え?」
「実際、オメ―が無事に俺の側にいてくれねーと、俺がダメになるからなんだよ」
「ダメになる?」
新一は小さく頷いた。
「オメ―が無事でいて俺を待っててくれてたことが、あのときの俺の原動力だった。蘭が待っててくれると思ったから俺は元に戻ろうと必死になれた。オメ―絶対に死ねねーと思ったから、俺はやつらの裏をかくことができた。逆に言えば、蘭なしじゃ俺は何もやり遂げることはできなかった」
 わたしは震えた腕を、そっと新一の背中に回した。
体の中から、少しずつ漠然としていた不安が浄化されていく。そして満たされていく。新一の言葉で。
「つまり、オメ―は俺の最大の弱点で、けれども絶対に必要不可欠な勝利の女神なんだよ」
 ほんの少しだけ腕の力が緩んだすきに、わたしは新一を見上げた。そこには顔を赤くして。同じようにわたしを見つめ返してくる新一がいた。
「クサいよ?新一」
「……オメ―なぁ」
「でも……」 改めて、わたしは新一に強く抱きついた。
今度はしっかりと、わたしが抱きしめた。
「ありがとう」
不安が消えていく。わたしは、どんな形でも新一の役に立てていた。それが何よりもうれしかった。
「でも、それならそうだって言ってくれればよかったのに?」
「……バーロー」
「え?」 不思議そうに新一を見るわたしに、新一は変わらず頬を赤らめたまま言った。 「本気で惚れてるやつに、そんな格好わりーとこ見せられっかよ」

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