砂時計
過ぎてしまった時間は、もう戻らない。
言ってしまった言葉は、もう取り消せない。
失ってしまったものは、もう取り戻せない。
いつだって失くすのはあんなにも容易いのに、どうして取り戻すのはこんなにも難しいのだろう。

「ごめんね乱馬、待った?」
そう言って、しかし悪びれる様子もなく無邪気に笑いかけてくるあかねに、俺は頬が緩むのを必死で堪えた。
あかねが天道家を出て2年経つ。
短かった髪は今や肩を流れるほどに伸び、それは出会ったばかりの、まだ距離のあったころの自分たちを彷彿させた。
側にいても届く、あかねの髪の甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「ゼミの会合が長引いちゃって」
「いいよ、そんなに待ってない」
そう?と、あかねは俺が怒っていないことを確かめるように、手を後ろに組みながら俺の顔を覗き込んだ。
その仕草の一つ一つが可愛らしくて、俺は思わず視線をそらす。

俺たちは20歳になった。
俺が完全な男に戻ったのは今から3ヶ月前。高校を卒業してすぐに中国に渡り、呪泉郷へと向かった。 あかねに告白されたのは2年前のことだった。俺が中国へ旅立つ3日前だ。そして俺はその気持ちを受け入れずに彼女の前から姿を消した。
あかねのことは好きだった。初めて会った時からたぶん好きだったのだと思う。だからこそ安易に「待っていてほしい」だなんて言えなかった。
命の危険が伴う呪泉郷への旅がどれほど過酷なものか知っていたし、18歳の俺は完全な男の体を求めていたのと同時に強さを渇望していて、それが彼女と一緒に生きることを選択した瞬間に消えていくのを知っていた。物心がついたときから自分は武道で生きていくのだと決めていた。そしてそれはどれほどの年月が経過したところで変わってはくれなかった。
躰の成長とともに俺の武道の腕はみるみる上がっていった。そして、平和で幸せな日常の中においては、力が少しずつ擦り減っていくことも理解していた。 だから必然だった。きっと、たぶん。
「いつ中国から帰ってきたの?」
堂々と飲酒が許される年齢になり、俺たちが入る店も甘ったるいパフェを出す町内の喫茶店から、電車を一本乗り継ぐ居酒屋へと当たり前のように変わった。
「1ヵ月前だよ。おめぇに電話しただろ?」
「あ、そうそう。家から電話がかかってきたと思ったら乱馬なんだもの。びっくりしたわよ」
そう言ってアルコールの入ったグラスを口元に運ぶあかねを横目に、俺もビールを流し込んだ。
「1年半かぁ。高校卒業して、あんたが中国に行ってもうそんなに経つのね」
「そうだな」
ふふ、と彼女が微笑み、つられて俺も口角を僅かに上げる。
心地良い笑い声が懐かしく、けれどどの記憶を辿っても、そんな風に笑う彼女の表情を上手く思い出すことができない。
「……ねぇ?」
「ん?」
「わたし、綺麗になった?」
俺は少し驚いて、あかねを見た。
そこには、照れるでもなく恥ずかしがるでもない、むしろ俺の反応を楽しむようなあかねの表情があった。 長く伸ばされた、甘い香りのする髪。高校生の頃の無邪気さを残しながらも、薄く施された化粧が見せる大人びた顔立ち。艶やかな表情に濡れた瞳は色っぽくて――――。
恐らく俺の口から「かわいくねぇ」だとか、「寸胴」だとか、「色気がねぇ」だとか、そんな言葉が出るこをと予想しているのだろう。そんなこと一度だった本 心で思ったことはなかったけれど、昔の俺から吐き捨てられる言葉は真意とは真逆の照れ隠しで、たぶんそれは鋭利なナイフのように彼女を傷つけてきたのだろう。
「うん」
「え?」
俺の言葉に、あかねは一瞬ポカンとした間の抜けた表情を浮かべた。
「すげぇ、綺麗になった」
いまなら、なんの躊躇いもなく言える。想いを、歪曲させないままに伝えることができる。
あかねはみるみる内に頬を紅潮させていき、耳まで真っ赤にしながら恨めしそうに俺を睨みつけた。
たった一言でこんな顔をしてくれるなら、こんなに喜んでくれるなら、もっと前から言ってあげればよかったなと思う。彼女を一喜一憂させることが、昔の俺には歯がゆいくらいに難しくて、彼女の気持ちにも自分の気持ちにも気付いていたはずなのに、そこから逃げ出すことしかできなかった。彼女は何気ない俺の一挙に、昔から眩しいくらいの笑顔でもって返してくれていたというのに。
「バカっ」
そう言って真っ赤になった顔をそむける彼女はやっぱり可愛くて、それを見ていると幸せな気持ちになるのと同時に心臓のあたりにチクリと痛みがはしる。
「乱馬も」
「ん?」
「格好良くなったね」
「……そりゃどうも」
「でもね、なんか余裕綽綽でムカつくわ」
そう言って楽しそうに笑う彼女に、俺も口元を緩めた。
そう見えているならよかった。
彼女はきっと微塵も思っていないのだろう。
俺がまだ、彼女のことを好きだなんて。
彼女への想いを、未だに引きずっているだなんて。


店を出た時にはすでに23時を回っていた。
アルコールを含んだのは久しぶりで、それなりに酔ってはいるのに、頭だけは嫌に醒めていた。
初秋を迎えた今年の東京は例年より少しだけ肌寒いらしい。吐く息が白く色を持ち、やがては寒空の中へと消えていく。
「本当に帰ってこないのか?」
「うん。明日友達と用事あるし、もう迎えも頼んじゃったから」
「そっか」
あかねの住んでいるアパートは、天道家からそれほど離れていない場所にあるらしい。
自立したいというあかねの希望を呑んで、早雲が実家の近くでというのを条件に1人暮らしを許したのだと、帰国してすぐに早雲に聞いた。
「じゃあ、また」
あかねはそう言って、俺に背を向け歩きだした。その後ろ姿は、以前の彼女のものとは全く違って見える。
髪型のせいだけではないだろう。先ほどまであんなにも近かった距離が、今ではこんなに遠い。
「あかね」
俺が呼ぶと、あかねはゆっくりと振り返る。
「なぁに?」
離れてしまった距離を埋めるように、彼女は少しだけ声を張り上げた。
「いま、幸せか?」
何を聞いているのだろう。今さらだ。
彼女を捨てたのも、傷つけたのも自分だ。
彼女に想いを告げられた時、俺は人生最大の嘘をついた。
本当ならばその場で抱きしめて、キスをして、口にしたこともないような甘い言葉をこれでもかというくらい囁いてやりたかった。でも出来なかった。俺は自分を選んだのだ。自分が完全な男になることを、そして強くなることを選んだ。結果として、俺は完全な男に戻ったし、名の知られた武術家にだってなれた。
そして、一番大切なものを失った。

あかねは少しの間黙って俯いていたけれど、それからとびっきりの笑顔で応えた。
「うん、幸せだよ」
彼女との距離を遠く感じたのは、ますます綺麗になった彼女を見て不意に胸が痛んだのは、きっと彼女がもう自分のものではないから。
彼女を綺麗にしたのは自分ではなくて、彼女が最後に見せたようなとびっきりの笑顔を常に向ける相手も自分ではなくて、彼女を守るのだって、もう自分ではない。
「バカだな、俺は」
彼女の背中を見送りながら、小さくつぶやいた。


家に帰って、親父たちとの会話もそこそこに俺はあかねの部屋へと向かった。部屋は何一つ変わっていなかった。違うのは、部屋の主がそこにいないということだけだ。部屋の中へと足を進め、俺は机の前で立ち止まった。
「写真……か」
写真立てに飾られていたのは、まだ俺たちが高校2年生だったころの家族写真と、卒業式の日に無理矢理2人で並ばされて撮られた写真の2枚だった。
その隣に置かれた砂時計。高校の修学旅行であかねが買ったものだ。相変わらず物持ちがいい奴だなぁと、思い出して苦笑する。

『砂時計には、"時を戻す"っていう力があるんだって。下に落ちた今までの時間を、ひっくり返すことによって元に戻すらしいの。何だかロマンチックよね』
修学旅行から帰ると、あかねは俺にこの砂時計を自慢げに見せながら、うっとりとした表情で言った。そして今はもう、昔のように簡単にその言葉を 「馬鹿馬鹿しい」の一言で片づけることができない。
俺はあかねをさらうつもりだった。俺の質問にあかねが一瞬でも表情を歪ませてくれていたら、間違いなくあの場であかねを強く抱きしめて、そして離さなかっただろう。 でも、あかねが見せたのはとびっきりの、狂おしいほどに愛しい微笑みだった。
「好きだ、あかね。世界中の誰よりも」
そう言って砂時計を返す。鮮やかな蒼の砂がゆっくりと静かに流れ始めた。

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