自暴自棄も悪くない
これまで、天道あかねはわりと真面目に、誠実に生きてきたつもりだ。
学校をさぼったことは1度もないし、好きなものを理由に学業を疎かにしたことだってない。 武道は、好きだったというのもあるけれど、継承を片隅に意識しながら真剣に取り組んできた。 嘘は嫌いだから、利口なやり方とはいえないけれど、気持ちはなるべく率直に表現するよう努めてきた。 卑怯なことも、死んだ母親に顔向けできないこともない。筋を、きちんと通してきたと自負できる程度には、 あらゆるものに責任をもって接している。門限時間だって厳守してきた。辛くてもかなしくても、泣くことなんてなかった。 それは当然のことなのかもしれない。あるいは、胸を張るようなことではないのかもしれないけれど、と彼女は思う。 それでも、努めたのだ。そして、中々上手くやってきたと思う。上々の出来だ。だから――――。

「か、か、かすみさんっ!!!」と動揺を露わにした声が耳をついたとき、あかねの躰は石のように硬直した。 東風整骨院の診察室の、僅かに開いたドアに手をかけた時だ。中から声が聞こえた。 彼が、彼の好きな人の名前を呼ぶ声だ。可憐な花の名前が、こんなにも残酷だったなんて。
この恋の始まりを、あかねは上手く思い起こすことができない。気づいた時には、だなんていつの時代のメロドラマだろうと 頭を抱えたくなるのに、そんな甘ったるい波の押し寄せに彼女はいつも胸を高鳴らせた。 初めて手を繋ぐのなら東風先生が良いと思った。初めてキスするのも、抱きしめてもらうのも(これは九能先輩に盗られてしまったのだけれど)、 その先も、東風先生が良いと思っていた。そこに愛情があればなおのこと素晴らしいと、あかねは想像した。チープな妄想に苦笑を漏らしながら、 子どものように思い耽ったのだ。それでも彼女が恋に落ちるよりも先に、東風先生が姉に恋をしていたことを、あかねは知っている。

「す、す、す、す、好きです!!!!」
いつも緊張して何も話せなくなっちゃうのになぁ。なんでこういうときに限って。 そんな風に考えている自分に気づいてあかねは愕然とした。築いてきたものの土台が歪み始めている。それなのにドアの隙間から見える光景に足は少しも動いてくれない。 頭の中では警告音が鳴る。
“早く立ち去りなさい!!!!!”
うん、分かってる。分かってるの。それなのに、足が動かない。
かすみお姉ちゃんが頬を赤らめた。彼女はとても綺麗で健やかだ。小さく頷き「わたしもです」と答える姉を、先生は力強く抱きしめた。 2人の唇が、隙間なく重なった。

乱馬のキスは、意外なほどに丁寧で優しかった。唇から伝わる熱も、乱馬の細長い指も、腕の力も、未だ鮮明に残っている。
素敵なものだったと思う。だから問題があるとすれば、それはあかねにある。
乱馬のことは嫌いじゃない。短絡的で、真っ直ぐで、良い奴だ。彼のお節介は時々あかねを腹立たせた。けれど、乱馬はとても優しい。 優しくて、昨日はその優しさに思いっきり甘えてしまった。
乱馬は、一体どういうつもりなのかと想像して、それは無駄なことだと悟る。
他人の心情が正確に理解できるわけがない。それは驕りだ。それでもどうにかレッテルを貼りつけなければオーバーヒートしてしまいそうだから、決めつける。あれは同情なのだ。彼は(絶対に言わないけど)、乱馬みたいに優しくて良い奴は、ちゃんと可愛い女の子と付き合った方がいい。下らない同情にすくい絡め取られているなんて、あんまりだ。
乱馬を求める女の子は多い。転入早々、様々な人間を引き付けるあの超人的な運動神経の持ち主のことを、思う。
一度なら、間違いで済まされる。けれど熟考した後の二度目に言い訳は付随してくれない。
間違い?そう、わたしが乱馬としたキスは、間違いだったーーーーーー。
目まぐるしく起こる思考が導く解答は、いつだって不本意に歪んでしまうのをあかねは知っている。脳のスペック上、処理できる情報量には 限りがあるのだ。
躰の至るところが鉛のように重く、そして不鮮明だ。わたしはかなしんでいるのだろうか?それとも?
「天道あかねー!交際しよう!」
さっそく向かってくるいつもの精鋭隊に、はっとしてあかねは構えた。野球部、サッカー部、ラグビー部、柔道部、アメフト部、バレー部、テニス部。彼らは交際と入部を免罪符にあかねに向かってくる。だから彼女の迷惑を顧みたりなどはしてくれないのだ。ひどい人たちだ!と、最初の頃は理不尽さに腹をたてたものである。
“あなたよりマシよ?”
なに?とあかねは怪訝に眉をひそめる。
“だってあなたは、好きな人に何一つ伝えられなかったじゃない”


「あかねー!頑張って!!」
教室の窓から、心配そうに彼女を見守る友人の姿を見つけた。あかねはにっこりと、2人に微笑みかける。
なんだか、イライラする。
“あかねはいつも逃げてばかり”
“あかねはいつも言い訳ばかり”
“好かれることにいい気になって”
“優しさを注がれることばかり望んで”
“そうして利用したのね”
なに、を……?とあかねは唇を噛みながら問う。
“決まってるじゃない”
なにかがあかねをあざ笑うように、そっと囁いた。
“乱馬の好意を、でしょう?”


一瞬だった。
勝負の世界では、いつだって一瞬の気の緩みが命取りになる。達人だって、気の緩みで子どもに負けるのだ。
空手部の男を背負い投げようとしたとき、過って体勢を崩した。
崩れる躰。受身は……まだ取れる。でも。
「もらった!天道あかね覚悟!!」
一体、なんのために、こんなにも頑なに勝とうとしているのだろうか。もう十分だ。もう、たくさん。
最後の1人だったのに、惜しかったな。その1人とはもちろん九能先輩だ。
愛刀を振り被り、目が合った瞬間お互いに結末を確信した。
「……終わりか」
覚悟して、目を閉じた。

衝撃は、中々やってこなかった。
そうして目をあけたあかねの目に最初に入ってきたのは、鮮明な赤だった。
「ら、乱馬……」
見慣れたチャイナ服。おさげの黒髪に大きな背中。
「なんで……」
乱馬はそれには答えず、九能先輩の木刀を白羽取りでかわした。華麗で身軽な身のこなしは優雅で、それが彼の力である。 3分と経たず、先輩の体は空の果てへと消えて行った。
「ちょっ……!」
乱馬が地面に尻をついたままのあかねを立たせた。あぁ、怒っているらしい。珍しくピクリとも表情を崩さない許嫁が、 目を細めてあかねを睨みつける。
「なんで手抜いたんだよ」
「は?」
息を呑む。乱馬はつづけた。
「お前、最後反撃出来ただろ」
口を噤むしかなかった。乱馬の言っていることは間違っていない。
「……怪我ねぇか?」
乱馬は黙ったままのあかねに観念したようにため息をついて、それから優しい口調で言った。それが、1番キツかった。
「……なんなのよ」
「は?」
「同情してるの?」
あぁ、ダメだ。そう思っていても、溢れていたものがボロボロと無残にこぼれ落ちていく。想いに反して言葉を紡ぐこの口が憎い。
「それとも告白も出来なかったわたしを馬鹿にしてるわけ?」
「お、おい……」
「どうせ威勢がいいだけで、何も出来ないと思ってるくせに」
「あかね!」
「なんで、助けたりするのよ」
こんなものはただの八つ当たりだ。乱馬の優しさに甘え、自分の不甲斐無さを人のせいにしているだけだ。 どす黒い靄のようなものが頭の中に立ちこめているせいで、何もかもが定まらない。ただ理解できるのは、乱馬にこんな表情をさせているのが 自分だということだけだ。
「……もう放っておいてよ」
自分の醜さに、泣いてしまいそうだ。どんなに辛くても、悲しくても、泣かないって決めたのに。 積み上げてきたものが崩壊する音がする。


たかが失恋、されど失恋。そこに激しい自己嫌悪。
化学実験準備室はひっそりとしていた。今日はどのクラスも授業はなかったようだった。屋上と図書室の次くらいに、居心地がいいなと思った。長時間床に座っていたせいでだいぶお尻が痛いけれど、薬品の匂いの立ち込めた狭く薄暗い空間は心を落ち着かせる。初めて授業を休んだ。ずる休みだ。その背徳感が、なんだかひどく心地良いのだから、自分は元来が優等生なんかの素質ではないのだ。
こんなに居心地のいいところ、乱馬には絶対に教えてやらない。あのお節介はもう罪だ。それを嬉しく思ってしまうのはあかねの方で、結局その代価を支払うのは 乱馬なのだから。
身代わりになってキスをするなんて、ましてや自分たちはお互いに好意を抱いているわけでもないのに、そんなのはあんまりだ。 乱馬は許嫁という関係を嫌っている。けれど、優しいから彼のあの長い手が届く範囲にいる人間を無意識に守ろうとしてしまう。
時計を見た。すでに時間は午後18時を回っている。あと1時間で校舎は完全に鍵をかけられてしまう。
そのとき、警戒な足音がこちらへ近づいてくることに気づいた。そして、開くはずのない準備室の扉が乱暴な音を立てて開いた。
現れた人物に、あかねは目を大きく見開いた。開いた口が、それこそふさがらなかった。
「……ハァ、ハァ………やっと、見つけた……」
呼吸を荒げて膝に手をつく乱馬は、汗びっしょりになりながら手の甲でそれを拭っている。
「な、何してんの……?」
「……お前こそ…何やってんだよ」
息も絶え絶えに答えるものだから、持っていたミネラルウォータを差し出すと、それをウマそうに飲みほした。
唖然としながら乱馬が息を整えるのを、あかねは待った。
「なに、授業サボってんだよ」
「いつからわたしを探してたの?」
「3時間目から」
「あんたもサボりじゃない」
呆れて溜息をつくと、乱馬は「あ、そうか」ととぼけたように呟いた。
「朝あんなこと言われたのに、なんで来たの?」
相当に、ひどいことを言った自覚はある。探しに来てもらう謂れなんてないのだ。迷子の子どもじゃあるまいし、手を引かれなくたって 家に帰れるんだから。本当、変な奴。
「……聞きたいことがあったんだよ」
怪訝な眼差しで乱馬を見ると、居心地悪そうに頷いた。
「なに?」
「だから……その」
「ん」
「お、お前……朝俺が九能をぶっ飛ばしてなかったら、どうしてたんだよ?」
「え?」
予想外な話に目を丸くして見るものの、確かに、と朝を思い返す。“手を抜いた”と、乱馬には言われた。 そんなつもりはなかったけど、本気だったと胸を張って言えるかと問われれば素直には頷けない。受身が取れたのに、自分はその場でそれを諦めた。 面倒になってしまったのだ。突然、頑張ることが億劫になってしまった。九能先輩は強く、なぜかいつもは勝ててしまうけど、本当はとても強い人なのだ。 今朝はどう頑張っても勝てる気がしなかった。遅刻せずに勝負をつけるどころか、真っ直ぐな刀を上手く振り払うことさえ自信がなかった。
どうしていたのだろう。負けて、九能先輩と付き合っていたのだろうか。
「……おめぇ、眉間に皺寄ってるぞ」
乱馬のごつごつとした指が眉間を押す。
「九能と付き合うことになってもよかったのか?」
よくなんてない。でも、先のことを考えられる余裕だってなかったらしい。放棄と逃避を一斉にやってのけたのだ。覚悟もなく、最後は諦めた。
「わたしが九能先輩と付き合う気かどうか聞くためだけに5時間以上も走り回ってたの?」
「……うっせぇ」
「ふふっ。本当面白い奴ね」
胸の辺りを流れる髪に触れた。それは恋の証だった。
好きな人のために伸ばした恋愛証明。
「どうにでもなれって、思ったのよ」
「え?」
「別に、九能先輩と付き合いたいなんて思ってないわ」
10年の恋だった。きっかけなんて、もう覚えていない。
すきだったのだ。彼のことが。
全身全霊を掛けて、彼に恋をしていたのだ。
「だって、わたしが好きなのは東風先生だもの」
瞬間、頬に生温かいものが流れた。それが何であるのかを理解するのに、随分と時間を要した。乱馬のごつごつとした指が頬のなにかを 拭った。しっとりと濡れているのは、恐らく自分の躰から滲み出てしまったものなのだろう。想いも、誤魔化しも、暴かれたような気持ちになって 途端に恥ずかしさまで浮上してきた。だからあかねは、自分を引き寄せる腕の力に身を任せ、遠慮なく背に腕をまわしてやった。 顔を見られることよりも、抱擁を交わすことの方が幾分かマシで、それはあかねを上手く救ってくれる。決壊したダムのように涙は頬を伝い、 それが乱馬の服にシミを作っていくのをざまみろ、という気持ちで眺めた。だってこんなの、悔しいではないか。
ふと、乱馬の服にしがみ付く手に水滴が落ちた。顔を上げようとすると頭を胸元に強く押さえつけられ、苛立ちよりも驚きが襲う。
「……なんで、あんたまで泣いてんの?」
「うっせぇ」
鼻をすすり、バツが悪そうに顔を背けたのが分かった。
「男にも、色々あんだよ」
確かに、と肯定すればまた涙が溢れて来て、あかねは背中に回す腕の力を少しだけ強めた。


町内をはだしで歩くなんて、はしたない。でもそんなことは気にも留めず黙々と進む。
昇降口は閉まってしまって靴を取りにいくことは敵わず、さらに泣いてしまった気恥ずかしさを誤魔化すようにあかねは靴下を脱いだ。 裸足で帰るとバカみたいなことを言い張る自分に、おぶっていってやるよと提案した許嫁を理不尽と分かっていながら睨みつけたら、自分の靴を脱いで渡してきた。これが妥協点だと。
「あ、あかね……」
「ん」
フェンスの上を器用に歩く乱馬を、見上げる。そしてその向こうにある満月を見た。雲ひとつない月夜は、なんて美しいんだろう。
「お、俺は本気だからな。昨日の……」
「昨日?」
「だ、だから……」
「だから?」
「俺が傍にいるって言ったこと」
「は?」
思わず間抜けな声を上げる。
あぁ、そういえば。キスを交わした昨晩、そんな甘い戯言を囁かれたかもしれない。
「言ったでしょう?同情はいらないわ」
「だから同情じゃねぇって、言ってんだろ」
訝しげに乱馬を睨む。同情じゃないなら何なのよ、一体。昨日だってさっきだって「先生が好き」って言ったじゃないか。 好きとでも、わたしに惚れているとでも言うの?と問いつめたい気持ちを、そんなはずない、と理性で制する。
「じゃあ、どうしてわたしの傍にいるの?」
私が寂しそうだから?と首を傾げると、違ぇよバーカ、と一掃された。
「お、俺が……」
乱馬はすると、華麗な身のこなしであかねのそばに降り立った。月夜で照らされた乱馬の頬は紅潮し、強張っている。 最近の乱馬は、よくこういう顔をする。相手を沈黙させてしまうようなセクシーな表情。
「俺が嫌なんだ」
声が震えていた。その声に、こちらまで躰が硬直する。
「あかねが傷ついてんのを見過ごすのも、九能や他のやつと妥協で付き合うのも、無理して明るく振る舞ってんのを見てんのも、全部俺が嫌なんだ」
あかねは息を呑み、乱馬を見詰めた。これがあの、乱馬?お調子者で、優柔不断で、甲斐性のないわたしの許嫁? だってこんなの、あまりにもずるい。緊張に揺れる面持ちが、科学準備室で見せた乱馬の泣き顔とダブってみえた。
「俺があかねを放っておけないだけだ!悪いか!」
乱馬の赤い顔も、乱馬の口から紡がれる言葉も、月夜の光も、あまりにも真っ直ぐで優しい。真っ直ぐで優しいものは、あかねを泣きたい気持ちにさせる。 だから誤魔化すように笑みを漏らすと、彼は悔しそうに睨みつけてくる。
「……おめぇ俺をバカにしてんのか」
「違うわよ」
そうしてイジケる乱馬に言った。
「ありがとう」
ありがとう。でも真っ直ぐで優しいものを、いまはまだ上手く飲み込めそうにない。
自暴自棄も、たまには悪くない。柄にもなくそんなことを考えている自分に気付き、あかねは小さく息を吐いた。


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