たぶん最初からそれは恋だった
一目ぼれ、と一言で片付けるのはいかがなものだろう。
だからといって、後頭部を力一杯殴られた衝撃、なんて大袈裟だ。
ただなんとなく、目を引かれたのだ。太陽に煌めく髪は深い青みを帯びていてキラキラと光ってとても綺麗だった。 それから間も置かずにくしゃりと気持ち良さそうに笑うものだから、そのまま目が離せなくなったのだ。 流れ作業のように彼女の一挙一動を注意深く見詰め、気付けばそれが日常化した。 だから、きっかけは、と聞かれれば(もし、万が一訊ねられるようなことがあればだけれど)それは非常にささやかで取り留めのないものだったと、俺は答える だろう。 ロマンなんて欠片もない。なにせ、恋を自覚したのは好きな男を見詰める彼女の横顔の切なさを見たからなのだ。 青春を彩るにはあまりにテンプレートなスタートで、艶やかさの欠片もなかったけれど、それは今でも大切に温められている。
「あかね」
無駄だと分かっていて、無機質な色を帯びる背中に呼び掛ける。分かり切っていたことだけれど、応答はない。 あかね、ともう3度ほど呼びかけて、ようやく彼女が鬱陶しそうにこちらを振り向いた。
「なによ」
「どこいくんだよ」
「は?」
「家はこっちだろ」
言いながら右の方を指さすけれど、彼女はそちらを見向きもせず「知ってるわよ」とつれない返事をよこして歩みを進めてしまった。 そっちは天道家とは逆だぞ、なんて言っても無駄なことは知っているから、俺は塀の上にとび乗って彼女の背中を追う。 チラリと彼女がこちらを見たけれど、呆れたような溜息をついて、そこからは一切こちらの問いかけには答えなかった。 俺が男だと分かった途端に豹変した彼女の態度はいっそ苛立ちを軽くとび越えて清々しいものすらある。 内に留めておくべきものとそうでないものの分別をはっきりと理解しているらしく、俺への嫌悪は彼女の健やかな心の内に留めておくにはあまりにチープであっ たようだ。 眉を潜めてヒンヤリとした眼差しで睨みつけられた瞬間、チクリとした痛みを確かに感じはしたけれど、 人を射抜くようなその視線が居心地悪そうに逸らされたのを見て俺は思わず笑ってしまった。 彼女は負けず嫌いで、男が嫌いで、けれど半分は女で彼女に負けることのない俺への嫌悪をどのように泳がせればよいものかと苦悶しているようだった。 そういう、真っ直ぐな彼女の中に垣間見られる迷いというのは、なかなか悪くない。その迷いの根源が自分から生まれたものならなおさらだ。そう多くは望まな い。 けれど、その眉を困惑に潜めてくれるのならば、それはなんと光栄なことだろう。
「泣きたいのはこっちだっつーの」
空を仰いで吐きだした弱音は柔らかな日差しと冷たい風の中へ溶けていく。あかねには聞こえないような小さな呟きで、けれどボリュームを上げたところで、 絶賛失恋中の彼女に自分の声など届かないだろう。声と言うものは、内に秘めたままでは絶対に相手に届いてくれたりはしない。 そして例え音に乗せて放っても、相手がすくい取ってくれなければ声は音のままに沈んでしまうのだ。

ようやく公園のベンチに落ち付いた彼女に、なけなしの小遣いで買った缶コーヒーを差し出した。余計なお世話だ、と罵られると思いきやそうでもなく、 彼女は「ありがと」と俯いたまま手を差し出してきたので、思わずその手を掴んでしまった。冷え切った手。すぐさまその手に暖かいコーヒーを持たせ、 彼女の頭を乱暴に撫でる。
「……なによ」
彼女の表情が険しくなった。堪えるように寄せられた眉間の皺。震えるほど硬く握りしめられた手。彼女の手の中で温度を失っていくコーヒー。
「別に」
ぶっきらぼうに言い放って、彼女の隣でコーヒーを飲む。こういうときに、女相手になんて声を掛ければいいのか分からない。彼ならば、きっと分かるだろう。
甘ったるい香りが舌全体に広がり、それは今思えば、まるで俺たちの関係の予兆のように思える。
「どうせ笑ってるんでしょ、馬鹿な女だって」彼女はぎゅっと、コーヒーの缶を握りしめて言った。突然、本当に突然だった。 そんな風に冷静さを失う彼女も、平静を装わない彼女も。俺はまだ、彼女のことをなにも知らないのだ。 「10年間も初恋を引きずった挙句、こんなになって無様だって思ってるんでしょう?」
「……おい、」
「わたし、先生がお姉ちゃんを好きなこと知ってたわ!それを理由に、気持ちを打ち明けることから逃げてきたんだもの。 それなのに、いざ2人が抱き合っているところを見たら簡単に動揺して、悲劇ぶっているのよ?本当に無様!」
「あかね!」
ビクっと、彼女の肩がふるえた。泣いているのかと思ったけれど、彼女の頬に伝うものはない。乱暴な言葉に真意が含まれていないことは知っている。 東風先生がかすみさんを好きなことを、あかねはずっと前から知っていたのだ。見せつけられた甘い抱擁が、キスシーンが、彼女の恋の終わりの始まりであるこ とを、 彼女は理解していたようだった。それは、一体どんなに悲痛なことなのだろう。彼女は10年間の気持ちをなんとか諌めようとしているのだ。そんなこと、しな くていのに。 辛いなら泣き叫べばいいのに。誰もあかねを責めたりはしない。弱いことで、少なくとも彼女が責められる謂れなんてない。 彼女が道場を継ぐことを理由に弱さを隠さなければならないのだとしたら、その責任の半身を担う俺に預ければいいのに。
「思ってねぇよ」
許嫁なんて望んでいない。心から望むのは、彼女の困惑よりも幸福なのだ。
「思ってねぇ」
驚いたようにあかねの瞳が見開かれて、俺を見たまま少しの間硬直した。長い髪が時々風に遊ばれて流れる。 濃密なシャンプーの甘い香り。胸をつく痛み。指を冷やす空気の温度。もう春なのに、なんて寒い日なのだろう。凍えてしまいそうだ。
「なんで、」あかねの指が俺の手を掴み、そのまま力が込められた。「なんで、あんたが泣くのよ」
驚いたのは俺の方だ。
ゆっくりと指先で頬に触れる。
「……泣いてねぇよ」
「泣いてる」
「うっせぇ」
それでも頬を伝うものを指で拭われてしまっては誤魔化しもあったものじゃない。
「お前が泣かないから、代わりに泣いてやってるんだよ」
そんな陳腐な台詞を、一体どこから俺は仕入れてきたのだろう。それでも、ふふ、と彼女が初めて微笑んだので、幾分か救われた想いだ。
「ねぇ、乱馬」
「……なんだよ」
「肩を、貸してくれないかしら」
今度は俺の方が、驚きに硬直する番だった。肯定の意を表する間もなく、彼女の頭が肩に触れ、僅かにではあるけれど、体重が預けられる。
「あんたは、変なやつよね」
あぁ、動揺しているのは俺だけなのだ。この女ときたら、人に寄りかかりながら軽口を叩けてしまうほどなのだから。 「お前に言われたくねぇよ」とため息交じりに呟きながら、早くなる心臓の鼓動を恨めしく思う。
「意地悪だったり急に優しかったり」
「喧嘩売ってるだろ、お前」
「ふふふ」
くすぐったい笑い声が漏れて、それだけであまりに幸せなのに、なぜか泣きだしたい気持ちになるのだから俺はもう重症らしい。 先ほどの失態がまだ緒を引いているらしく、気を緩めれば零れ落ちそうになる。
「嘘よ」
小さな彼女の声を、俺は見逃さない。彼女が俺の声を、このさきどれほど取りこぼしたとしてもだ。彼女がそれまで、彼に対してそうしてきたように。
「乱馬は、本当はやさしいもの」
あぁ、ちくしょーと心の内で唸って、上目に俺を見上げる彼女の微笑みに、こうも簡単に顔を熱くする自分の単純さを呪った。続けて「顔、赤いわよ?」と 俺の顔を覗きこんでくるものだから、俺はなんとか彼女を引き剥がして顔を背けるので精一杯だった。こういうのは、反則、だ。 いつもはツンとそっぽを向いている癖に、こんなのは。
「なんてね」
「は?」
無邪気に笑う彼女に呆気に取られていると、先に立ちあがった彼女に手を引かれたので、立ち上がるフリをしてその手にさりげなく力を込めてやった。
いまはまだ、手を触れ合わせるのにだって理由が必要で、それでも、そういう建前は案外悪くないのかもしれない。


そう、たぶん、最初からこれは恋だったのだ。

inserted by FC2 system