甘い憂鬱

 甘ったるい毒を染み込ませた罠を、彼女の前に敷いてやった。
 ご丁寧に、ここに罠が潜められていますよ、と声を大にして教えてやって、その罠が自分自身に跳ね返る呪いのようなものであることだってちゃんと理解していたのだ。

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「俺じゃダメか?」
 彼女の腕を掴んで、その手を取った。普段は冷静な彼女の大きな瞳が僅かに見開かれて、澄んだ虹彩に動揺の色混じって淀むのを垣間見た。
「なにを……あんた」
「だから、俺が代わりじゃダメ?」
「え、ちょっと、え?」
 平静を着込むようにして装うのがこの天道あかねという女だから、珍しく取り乱す彼女というのはなかなか新鮮である。
「代わりって」
「東風先生」
「……だって、別に付き合ってなかったのよ?」
「うん」
 そんなことは知っている。それでも手を差し伸ばしたいと思ってしまったのは俺だ。傷心中の彼女の隙に忍びこんで、甘い蜜を吸おうとしているのだ。 だから代償はすべて俺が引きうける。大丈夫だ。だって彼女は。
「わたしは、別にあんたのことを何とも思っていないのよ」
 だって彼女は、俺のことが好きなわけではない。それならば大丈夫だ。
「知ってる」
「……バカじゃないの?」
「そうかもな」
 そのまま彼女の掌に唇を当てた。珍しく、本当に珍しく、彼女が困惑しながら顔を真っ赤にするものだから 「おめぇが失恋風吹かせてると、こっちの闘気が削がれるんだよ」とツマラナイ後付けをすると、彼女の方もさすがに居心地が悪かったらしく、その後付けに乗ってきた。それからはそれが、俺たちの関係のテイとなった。
 気付かないフリ、というのは、案外2人とも得意らしい。

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 夕食のとき、少し照れたかすみさんの表情はフィルムのように俺の脳裏に記憶され、子どもばかりがその内情に気付いていた。 東風先生の診療所で、かすみさんが先生の腕の中で幸せそうに微笑んでいたのを見たとき、違和感はあるべき場所に戻ったかのように 心の内でしっくりと落ちついた。先生の背中にまわされた腕も、その後に行われた口付けも、耳まで真っ赤に染め上げる先生の顔も、嬉しそうなかすみさんの微笑みも、なにもかもがあまりに自然だった。だから、夕食後に乾いた笑顔だけを振りまいておいてさっさと 部屋に戻るあかねの後を追う俺から、なびきは目を逸らしたのだ。
 ノックと同時に部屋を開けると、ベッドの上に腰掛けてぼっと俯くあかねの姿があった。顔は見えない。 けれど、シーツを握りしめる両の手の拳が震えているから、彼女の内側でどれほどの苦しみが蠢いているのかを理解することぐらいはできる。
「……なぐさめてやろうか?」
 呟いて、あぁ、まずったな、と後悔したのは束の間だった。あかねは黙って立ち上がり、殴られることを覚悟した俺に突然水を掛けた。
「ちょっ……!」
 そのまま彼女は俺の腕を強く引き、俺をベッドに押し倒したのだった。慌てて起き上がろうとする俺の上に跨り、あかねはにっこりと不気味な笑みを浮かべた。
「おい、ちょっと」
「ん」
「なに、やって……っ!」
 そのまま首筋に柔らかい唇を押し付けられて、声にならない声を上げた途端に今度はお湯を掛けられる。 目まぐるしく変化する奇妙な躰と、彼女に思考。咎めようと口を開いてはみても、なんと言葉を続けていいのか分からずに、結局そのまま閉じた。
「なぐさめられるの?」
 あかねはクスリともせず、俺の手を自分の頬に重ねた。短いスカートの間から覗く白い太もも。きわどい位置に体重を掛けられ、 けれどもその目にからかいの色が微塵も浮かばないものだから視線が逸らせない。彼女の細い腰を引き寄せ、頬に重ねた手をそのまま引き寄せ、その唇に指で触れる。
「……最悪だ」
 吐き捨てるように言って、そのまま彼女の唇に口づけた。下唇に歯を立てて、そのまま舌を絡めて口内を弄った。これが代償だ。キスは気持ちが良くて、彼女の香りに狂ってしまいそうなのに、心臓を突く痛みは激しさを増していく。彼女の、わずかに紅潮した頬とくぐもった声にますます焦燥する。
「んっ……」
 首の後ろに回された細い腕。とても武道の達人とは思えない。自分のものとは、あまりに違う。両親とも同じ屋根の下にいて、気持ちはすれ違っているのに、 背徳の香りを放つ行為に興奮した。
「乱……馬」
 ビクッと、肩が震えた。
 最悪だ、こんな、名前を呼ばれただけなのだ。でもそれだけで、翻弄されて、手放せなくなる。紅潮した頬に勘違いをしてしまいそうになる。 これは罠で、仕掛けたのは俺の方なのに。これは、偽物の快楽なのに。
「わたし、あんたのこと、別に嫌いじゃないから」
「は?」
 呆気に取られて、その意味を上手く理解するのに時間がかかった。あぁ、そういえばさっき、何とも思っていない、と言われた。 でも、何もこんなときに、そのフォローを口にしなくたって。 顔が熱くて、顔を見られたくなくて、おまけに頭だって抱えてしまいたかった。キスだけでもう、こんなにも余裕がないのに。 呪いを掛けた罠はきちんと張り巡らせたのに、まさかこんな形で返ってくるとは。
「……オレも、嫌いじゃないです」
 なんとか紡いだ言葉に、彼女が「知ってる」と苦笑する。消えてしまった日常と、暗雲の立ち込める不安定な行く末。 それでも、背中が燃えて焼け落ちるまでは、その嘘に浸ろうと思った。 
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