飼い猫に手を噛まれるということ

 無自覚は罪で、彼女の背中から伸びる白い羽は、真っ赤な果実を抱え込んで彼女の許へ訪れるいたいけな悪魔を、即座に浄化してしまうのだから、これではどちらが正義なのかわかったものではない。

「蘭先輩ー!勉強教えて下さい!!」
「あ、優太くん」
「………………」
 さて、今の状況を簡単に説明しなくてはならないだろう。放課後の教室はいつも以上にざわめいていて、窓の外に覗く空は分厚い雲に覆われ、窓にはいくつかの水滴が流れている。
 俺たちは修学旅行を1ヵ月後に控えていて、今週中に面倒な計画表を班で作成して提出しなければならず、そういうわけで帝丹中学2−Bの教室は、最近ではほぼクラスメート全員が放課後に残って計画表を作成しているのだ。
 班は6人程度で構成されており、俺は財閥令嬢に“弱み”を握られていて、令嬢の思惑通りあっさりと班は決まった。そうして今は、机をくっつけて計画表を 作成している真っ最中である。
「どこが分からないの?」
「ここなんですけど」
「どれどれー?」
 目の前で繰り広げられるチンケなやり取りに、俺は小さくため息をついた。そんな蘭の様子を、あきれ顔で見る令嬢の園子。なぜかビクビクしている俺のサッカー部の悪友たち。そして後輩くんの“下心”に少しも気づかずに、優しく勉強を教える幼馴染。
「ごめんね園子、みんなも。ちょっと待ってて」
「あぁ、いいのよ別に。どうせあたしらの班はほとんど計画表立ってるんだし」
 ただ単に、放課後のちょっとしたクラスの雰囲気の良いに浸りたくて、残っているだけだ。外は雨で、部活は休み。家に帰っても本を読む以外にとりわけすることもない。それに中学生になってからは急に忙しくなり、蘭とゆっくり過ごす時間も減ってしまったから。
「……なぁ、工藤の顔がさっきから怖ぇ」
「んなこと、言われなくても分かってるよ。おい、なんとかしろよ鈴木」
「そんなレベルの高いことを、一般市民のわたしにできるわけないじゃない」
 ぼそぼそっと、小声で何かを話す班のメンバー。俺の視線の先で、後輩に丁寧に勉強を教える蘭。そして後輩くん。知ってるぞ。俺は、こいつが一年の上位5位にはいる成績優秀者の常連だって。
「し、新一くん……?」
「あ?」
「い、いいの?あれ、あのまま放っておいて」
「…………いいんだよ、あれで」
 彼女らしからぬ控え目な視線で俺を見上げる園子に、ぶっきらぼうに言い放つ。俺は園子のさす“あれ”を盗み見て、小さくため息をついた。俺が何もしなく ても、たぶん“本人が”きちんとなんとかするだろう。イタイケな少年の心に、きちんと。
「つまり、ここには関係副詞のwhereが入るの。分かった?」
「はい!すげぇ分かりやすいです」
「そう?なら良かった!」
 ……別に、後輩相手に妬いてるとかそんなんじゃないけど。嬉しそうに微笑む蘭は可愛くて、その笑顔の相手がよく分かんない後輩だというのはやっぱ無性に腹が立ち、俺はなんとなく安っぽいちゃちをそこに忍ばせた。
「蘭、オメー学年で5番に入ってる奴に勉強なんか教えられんのか?」
「え、優太くん5番以内に入ってるの!?」
「…………」
 今明らかにびくついただろう、こいつ。やっぱり蘭は何も分かっていないし、さすならさっさと止めをさしてやれ!と叫びたくなるのを、俺はなんとか堪え た。自分でも、無理矢理おさめた表情筋が悲鳴を上げて痙攣するのがわかる。
「なぁ、鈴木なんとかしてくれよあれ!頼む!」
「……アンタの友達でしょ、アンタの」
「俺は無理だ。工藤が怖え、マジで」
 後ろでぼそぼそと言葉を交わす友人たちを睨み、やるせない思いを小さなため息の中に込めて吐き出した。
「すごい、優太くん!頭いいんだねー!」
「や、全然、そんなことないんです!」
 なら、その頭の良い奴がなんで自分にベンキョウを聞いてくるのかまで考えてくれると、こっちは楽なんだけどな。純粋に後輩を褒める辺りも蘭のいいとこなのかもしんないけど、こっちは毎度毎度気が気じゃない。なぜ事件も起きない、平穏な日常生活のなかでこんなに神経を張らなければならないのだ。……決まってる。
「じゃあ、新一と同じだね」
「え?」
「………………」
 瞬間、初めてその後輩の視線が俺に移った。頬杖を付きながら、その様子を眺めていた俺は、突然幼馴染により浮上した自分の名前に顔を上げる。
「……工藤先輩と?」
「つーか、お前上位5位に入ってんのか!?」
「そうだよ。新一この前3番だったもん」
 ねー?と、無邪気に笑いかけてくる蘭に、不意打ちを受けた俺は熱くなる顔を無理矢理背ける。「別に」と適当に相槌を打ち、始まった、と後輩くんに精一杯 の同情を送った。
「あ、そうだ!優太くん、新一に勉強教えてもらったら?」
「「「…………え?」」」
 俺以外が声をあげた。
「く、工藤先輩にですか……?」
「うん!新一の方が、わたしよりも教えるの上手だよ!」
可哀想な青少年。蘭と本人以外の誰もがそう思った瞬間だ。
「……鈴木、あれはわざとなのか?」
「そう思うの?本当に?」
「工藤が未だに毛利と何もない理由がここに見えるよ」
……うっせーよ、ほっとけ。
「だって優太くん、わたしじゃ教えてもらうの物足りないでしょ?」
「そ、そんなこと……!」
「まぁ、新一くんに聞いたら間違いないわよね。なんか変な知識とかもいっぱい入ってるし」
「……園子、てめぇな」
 瞬間、後輩くんの意味ありげな視線を側頭部に浴びた。
……痛ぇよ、視線が。
俺は小さくため息をついた。
「じゃあ、今度一緒に教えてもらおうか?」
「え?」
 今度は俺を含む全員が、驚いた表情を浮かべて蘭の方を振り向いた。
「わたしも、時々新一に勉強教えてもらってるんだ」
「工藤先輩に……ですか?」
「うん!わたし理数系苦手で、英語も本当はたまに聞いてるの」
 頬をかきながら、少し照れたような表情を浮かべてるのは、たぶん自分があまり勉強を得意にしているわけではないことに対する恥ずかしさなんだろうけど。自分の話をそんな顔でされると、分かっていても勘違いしそうになる。勘違い、したくなる。
そして、恐らくはこいつも。
「優太くんはね」
「え?」
「いつも部活だってすごく真面目にやってるし、2年生の教室に質問に来るくらいの頑張り屋さんだもん。わたし、応援してるよ!」
「は、はぁ……」
「だから、わたしたちで教えられるところなら教えるから、遠慮なく聞きにきてね?」
 飴と鞭。普通選挙法と治安維持法。極上な笑顔と残酷な声援。「まぁ、優太くんの方がわたしよりも全然頭良いけどね」と苦笑しながらも一生懸命に激励を送る蘭。そして、もはやどこか遠くから、その様子を眺める俺たち。
「……新一くん、蘭あれ本気で言ってんのよね?」
「だろーな」
「応援されちまったな、アイツ」
「……俺はもう言葉もない。とりあえず、頑張れ工藤」
 敵ながら塩を送ってやるたいと思わなくもない。俺だって、似たような経験がないわけじゃないから。……あぁ、思い出したくもないけど。
 仕方ないのだ。そういう、自分の価値に鈍感で無頓着なところが、蘭の良いところでもあるんだから。
「蘭先輩、よく工藤先輩と一緒に勉強してるんですか?」
「え?うん。まぁ、わたしが一方的に教えてもらってるだけだけどね」
「じゃあ、今度俺も一緒に勉強させてください」
「本当!いいよ。じゃあ、今度一緒に新一の家行こう?」
「へ?家?」
 蘭の言葉に、後輩くんは驚きに目を見開いた。けれども蘭は、そんな少年の心の内に秘められた緊迫した事情など知る由もなく……。「ねぇ、いい?新一」などと、更にトドメをさした。
 ……なるほど、俺以外が仕掛けてみると、ああいうパターンで打ち負かされるのか。なかば感心しながら、そんなことを頭の片隅に想いながら「……あぁ」と曖昧に応える。そのとき―――――。
バタン……っ!!
後輩が勢いよく立ちあがった。
「……蘭先輩、ありがとうございました」
「え?」
「やっぱり、勉強教わるのは止めます」
 後輩は小さく頭を下げ、顔をあげてから真っ直ぐに蘭を見た。そうして俺たちの視線を浴びながら、そいつは顔を真っ赤にして言った。
「次はもっと勉強して、俺が蘭先輩に勉強教えてみせますから!」
「へ?」
「……俺、工藤先輩には負けませんから」
「え、俺……?」
 そいつはそれだけ言い放って再び頭を下げると、そのまま2−Bの教室を出て行った。呆然とする、俺たちを残して。
「ど、どうしたのかな?優太くん」
「……アンタがいたいけな青少年の心を痛めつけたからでしょう」
「なんか顔が赤かったし、体調悪いのかしら。今週末、空手部の試合があるんだけど」
「大丈夫だと思うぞ、毛利。……まぁ、確かに恋という病にはかかってるのかもしんねぇけど」
「っていうか、勉強はもう大丈夫かな?」
「……学年5番って俺には未知なんだけど、どうなんだよ工藤」
「俺に聞くな」
「そういえば最後、工藤先輩には負けないって言ってたけど、何の話?新一」
「………………さぁな」
 言っただろ?本人がなんとかするって。こいつにもう何年も片思いしてる俺の気持ちにすら気付かない毛利蘭に、半端なアピールなんか通じねぇよ。それにもし本気で蘭を落とそうとするやつが現れたって、付け入る隙なんか与えてやらないけれど。
「にしても、お前ちゃっかり毛利に勉強教えてたんだな」
 意地悪く笑いながら耳元でそう囁く悪友。いつもなら「うっせー」と返すところだったが、俺はにやりと意地悪く笑い返し、そして蘭に聞こえないように言っ た。
「当たりめぇだろ。何のために俺が学年3番取ってると思ってんだよ」
 

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